〈簡単そうに見えて簡単じゃない②〉

 

 歌は、たとえ音痴であろうと歌う事は出来ます。音程がずれようとも、本人的に音程を保って歌おうとする事は出来るからです。上手に歌おうと思えば訓練も必要ですが、上手さにこだわらなければ、誰にでも簡単にすぐ出来る行為ですよね。

そんな、「簡単に出来る行為」である歌を使って、先生がさまざまな結果を出してきた例を、もう少しお話したいと思います。

 

 慧真導気功術の生徒でもあるその方は、音量もあるし声質もパワフルで、上手に歌えればそれは素敵な歌が歌える素質が十二分にある方なのですが、どうも高音域になると、必ず半音ほど下がってしまいます。出そうと思えば出そうな所でも、必ず半音ほど下がった音程で歌ってしまう。

 その事を本人に指摘したら、本人にもその自覚はあるのですが、どうしてもコントロールが出来ないようなのです。

 その方が、慧真導気功術の親しい生徒と、下澤先生も一緒にカラオケをした時の事です。

 やはりいつものように、高音域でどうしても音を外してしまう。この問題をクリア出来れば、素晴らしいとまでは言えなくても、とても良い歌になるのに惜しい事です。

そんな姿を見かねたのか、下澤先生が立ち上がり、歌っているその方のそばに行きました。そして苦手な高音域を歌っている所で、マイクを持っていない方の腕を取り、曲げたり伸ばしたり、腕を動かし始めたのです。その様子は、まるでトロンボーンを演奏するかのように、音程に合わせて腕の伸ばす長さを変え、時には腕の角度も変えて動かしているのです。

そしたらどうでしょう、今までどうしてもずれてしまっていた音程が、ピッタリあっているのです。これには本人も驚いて、目を丸くしたまま歌っています。この様子から、これが本人の意図したことではないと分かります。

その後も、その方が歌う機会はありましたが、本人的には一生懸命歌っても、先生が腕を動かしてくれた時のように、高音域を上手に歌う事は出来ませんでした。

 

歌の例をもう一つ。

その方は天性の音痴とでも言いましょうか、音程を一音も合わせる事が出来ず、ズレるというより大幅に音程が違い、原曲のメロディーが全く分からない歌を歌う方です。しかも、音程が合っていない事が、本人は全く分かっていないという、かなり重症な音痴です。

先生はその方に、「声を出さずに歌いなさい」と指示しました。原曲をかけ、指示通り声を出さずに口パクで歌い、目をつむっていれば、原曲がかかっているだけという状態が3曲程続いた頃、先生が「声を出して歌っていいよ」と一言。

声を出して歌ってみると、全部とは言えないまでも音程が合い、原曲のメロディーが少し分かる位に歌えているのです。あまりの変化に、周りから歓声が上がった事はいうまでもありません。

しかし、これも長続きはせず、2曲目を歌う頃には、だんだんと合わない音程が増え、2曲目の終わり頃には、元の重症音痴に戻ってしまいました。

 

これらの話を読んで、皆さんはどう感じたでしょうか?

歌を歌う事も、腕を動かす事も、声を出さずに歌う事も、至って簡単な事です。同じ事をしようと思えば、誰でもすぐに出来るでしょう。

しかし、下澤先生と同じ結果をその方達に出せる人は、おそらく誰一人として存在しないでしょう。当の本人達ですら、してもらった事と同じ事をしても、同じ結果を出す事は出来ないのですから。ただ単純に「歌いながら腕を動かせば良いんだ」とか「歌う前に何曲か声を出さずに歌えばいいんだ」と、表面的な部分だけを理解しても、決して同じ結果には結び付きません。ましてや違う日に、全く同じ事を再現したとしても、同じ結果になるとは限らないのです。

 

重要なのは、その結果に結びつくメカニズムを分析し、理解出来るかどうかなのです。たとえ歌でも施術でも、その人、その時の体と意識の状態を把握し、その問題点を見つけ出し、それを解決する方法を探し出せなければ結果が出ないのは同じ事です。

一見簡単そうに見える事でも、それらが示す事実は、見た目とはかけ離れた奥深い所にあるのです。この深い所の事実を見る事が出来るからこそ、下澤先生は我々にはマネの出来ない結果を出す事が出来るのです。